~クジヤの原点~

『まずはクジヤに聞こう』
『クジヤに頼めば大丈夫』と
お客様に思ってもらうことが
全てにおいて優先される!
を会社のモットーとし、
地元栃木に必要とされる存在になることを
目指してきました

大田原城図
大田原城図
くじや発祥大手門跡
大島くじや発祥大手門跡

現在の矢板市で大農家であった大島家次男として生を受けた曽祖父は、当時大田原城龍西大手門前に居を構えていた旧武家の阿久津家から敷地を譲受けました。そして、1903年には筆職人として営み始めます。曽祖父はガンコ者で「お客様により満足していただくには如何すれば?」と考え続け、職人としての腕を磨き続けて高い理想を求めていました。その作業場の横で、万屋的な商店を曾祖母が営んでたのが大島くじやの始まりでした。

クジヤ営業車
クジヤ営業車

商店として大きな戦争を幾つも乗り越えるも第二次大戦で日本は敗戦しました。それから5年が経ちました。1950年に中島飛行機製作所 大田原工場から払下げを受けた初代営業車は大活躍をしました。当時は万屋的な商店はそのままに、大島くじやは文具卸売りで栃木県北地域を走り回っていました。

大田原市の誕生
大田原市の誕生

1951年に父が会社として登記する際、曾祖母が営んでいた商店を子どもたちが「くじ引き屋の“くじや”」と愛称で呼んでくれていた有難い名前を大事にしようと、社名を『有限会社 大島くじや』と名付けました。1954年、当時の神武景気は日本の高度成長期の始まりを感じさせるものでした。大島くじやが学校取引が拡大し、現在に至る礎を作った時期でもあります。

栃木県立大田原女子高等学校
栃木県立大田原女子高等学校

1954年、大田原女子高等学校は当時在学中だった母の母校で、学校購買部とは既に取引をしていました。母に聞くと、当時の学校内で学用品の購入話が出れば、それは『くじやに買いに行く』を意味していたといいます。当時は学校との取引で他の追随を許さなかったほどでした。

配達用バイク
配達用バイク
正月の旧店舗前
正月の旧店舗前

1963年、オリンピックを翌年に控えた五輪景気に乗り、大島くじやも成長し始めます。
一般企業との取引が増え始めた時期でもあり、大島くじやの配達業務には車は勿論バイクも駆り出していました。

正月の旧店舗前
正月の旧店舗前

1976年、いざなぎ景気で経営が安定したのを機に本店社屋を新装しました。現在社屋の鉄筋コンクリート造りは当時珍しく、大々的にオープニングセレモニーまで行いました。当時の大島くじやは”文具屋”のイメージしか世間にはありませんでした。

スチール家具
スチール家具
ワープロ
ワープロ

1980年代、日本はバブル景気に入り、OA機器・オフィス家具販売が急成長しました。好調な景気から大田原市でも多くの個人経営会社が誕生し、需要が高まってきました。現在の“オフィス移転”“オフィス家具”“オフィス工事”といった【オフィスの環境づくり】という大島くじやの業態の土台が作られました。

現在の大島くじや

現在の大島くじやは、曽祖父の”理想を求める精神”を4代目の大島雅彦も引き継ぎながら、お客様の思いに応えるオフィス作りをさせていただく仕事をしています。
成長し走り続けるお客様の会社にとって何時までも信頼のおける”伴走者”でありたい!そう強く思い、大島くじやも日々成長し”理想を求めて“挑戦を続けています。